ふわふわといったりきたり

60代無職おひとりさま女性のひとりごと

近所の桜は完全に終わってしまいました。
夜の風と雨にとどめをさされたという感じです。
縺れ絡まり濃く色を変え地面に張りつき無残な姿を晒すたくさんの花びら。
つい昨日まで風に乗ってくるくると舞っていた軽やかな姿が重く地にへばりついているのをもう誰も見ようともしない。もう見たくもない。
人は美しかった花の記憶をだけを持っていたいのでしょうね。


今年の桜は咲いたと思ったらすぐに満開になって、楽しめる時間が短かったのが残念です。
小学校の入学式にはちょうどいい具合に間に合ったのですが、最近では珍しいことですね。
入学式に校門で写真を撮れば背景に桜が写り込むというのがあたりまえだと思っていましたが、それは半世紀以上前に小学生だった者の感覚なのですね。


花見といえば桜の根元で敷物を広げて飲んだり騒いだりという花見をしたことがありません。
花は通学途中や通勤途中に眺めるのがもっぱらでした。
あるいは散歩のついでに公園の桜を眺める。
どうも花と宴会が結びついた思い出がありません。忘れているだけかもしれませんが、ブルーシートの上でビールを飲んだ記憶はない。
若い頃の私は宴会が苦手でした。声をかけてもらっても参加しなかったはずです。
今から思うと一回くらいは参加しておいてもよかったかな。


はるか20世紀の昔、私が学生だった頃、同級生のひとりは一家揃って吉野で花見をするという優雅な家族行事を毎年おこなっていました。
記憶では出かけていたのは4月の連休の頃だったような。
当時吉野の桜の見頃は4月の半ば以降だったのです。
2024年現在その時分に出かけようものなら、花なぞどこにあるのやら、美しい新緑の山をひたすら眺めることとなるでしょう。


同じく20世紀の終わりに私も吉野へと出かけたことがあるのですが、それも4月だったと記憶します。3月は年度末だからそんな暇はなかったはずだし、桜もまだそれほど咲いていなかった。
中千本あたりまでは到達したと思います。それほどたくさん歩いたと思わなかったけれど帰りに会った人に疲れた顔をしていると言われてしまいました。
顔がかなり強張っていたのでしょうね。普段から運動不足でしたもの、山歩き(というたいそうなものではないのですが)なんぞできるわけがありません。
天気もよく晴れていたと霞む記憶はもうかなり都合のいいように改竄されているのでしょう。暑かったという記憶もなく、いい思い出という形に落ち着いています。


4月の桜。大阪の造幣局の通り抜け。一度だけ行きました。これも20世紀末のことです。
珍しい品種がたくさんあっていろいろ見られるのでとても楽しかったのを覚えています。
私はソメイヨシノばかり咲いているのは面白くないというひねくれ者なのです。


4月の桜の記憶をもうひとつ。京都の仁和寺、御室桜。
遅咲きの桜を見に行ったのも20世紀末の4月。
春もののコートを羽織って、その日も晴れてはいたけれどやはり暑いとまではいかなかった。
高さ2メートルほどの丈の低い桜は花が近く、毬のような塊が枝にたくさん生っているという感じのたいそう愛らしい風情でした。


京都には3月の桜の記憶もあります。
3月も終わりに近いその日は昼間の気温は20度を超えていたけれど、私達は油断することはできませんでした。なぜなら夜は薪能を観るからです。
日が落ちれば寒くなるのは分かっていたので、重いのは承知でコートもマフラーもストールもカイロも携えて昼の桜を眺めていました。
夜が来て急速に気温が下がり用意した冬の防寒着を着込んでも寒くて寒くてたまらなかった。篝火の近くに席を取ればよかったと反省しました。
けれど篝火の近くにいようがそれでも寒かったようで、休憩時間にカイロの販売があると人々は殺到していました。
夜桜も薪能もよかったけれど、一番の思い出は寒さです。般若心経を唱えるときに歯がカチカチ音をたてておりました。


見ることができなかったのは醍醐寺の桜。
桜が終わって数日後の醍醐寺に二、三回行ったことがあるのですが、今から思うとあれはなぜ行ったのかしら。仕事かな。でも何の仕事だろう。
20世紀末かあるいは21世紀のはじめだったと思うも行ったことと、桜に間に合わなかったことしか記憶していない。
もう行くこともないだろうと思うと少しさみしいですね。
けれど今の京都のあの人の多さを見ると近寄りたいとは思いません。
幸いなことにどうしても行きたいところは今のところ無いし、
どうしても行かなくてはならない用事もありません。
もう少し人が少なければいいけど、この先日本は観光で食っていかなくてはならないのですからそうも言ってられませんね。